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【報告】FFPJ第31回講座 編著者と語るシリーズ第2弾 ほんとうのグローバリゼーションってなに?

FFPJオンライン講座第31回「ほんとうのグローバリゼーションってなに?」が7月20日15:00〜16:30に開催されました。同講座は、編著者と語るシリーズ第2弾。『テーマで探究 世界の食・農林漁業・環境』(農文協)の第1巻『ほんとうのグローバリゼーションってなに?』について、同書の編著者の池上甲一さん(FFPJ常務理事、近畿大学名誉教授)、斎藤博嗣さん(FFPJ常務理事、一反百姓「じねん道」)、田村梨花さん(上智大学教授)が語り合いました。以下は講座の概要になります。末尾にある動画もぜひご覧ください。(本の紹介ページはこちら

*池上さん

 私は家族農林漁業プラットフォーム・ジャパンの常務理事をしております池上でございます。今日は前回、第30回の講座、「ほんとうのサスティナビリティってなに?」という編著者と語るシリーズに引き続きまして、「ほんとうのグローバリゼーションってなに?」についての狙い・概要のご紹介と、そこからの発展的な議論ということで進めてまいりたいと思います。私は編著者の1人として概要の部分の発表をいたします。それからあとの議論についての司会を担当いたします。それでは概要についてご紹介をしたいと思います。

 これは前回もご紹介いたしましたように、3巻の構成ですね。1巻が国際的な動向を含めたグローバリゼーション、それから2番目が日本の農業を中心に扱っているサスティナビリティ、それから3巻が林業と漁業を扱っているエコシステムという3巻構成になっています。それぞれの巻について、「ほんとうの・・・ってなに?」 という問いかけをしているということ。その副題と言いますか帯のところにも、それぞれの巻を反映した問いかけをしておりまして、第1巻、今回のものにつきましては、「経済成長はみんなを幸せにした? 」とういう問いかけをしています。それからそれぞれのキーワード、1巻はグローバリゼーション、2巻はサスティナビリティ、3巻はエコシステム。それぞれカタカナ語のままにしております。無理に日本語にすると、何となく分かったなというような気になってしまいがちなので、ここはそのままカタカナで残して、できるだけ、これはいったい何なんだろうと疑問に思ってもらいたいということで、このままの形にいたしました。

 これも前回、申し上げましたけれども、このシリーズの4つの特徴を、1巻でどのように反映したのかということについての説明をしてまいります。最初に特徴の1番目です。これは問いかけで始めているけれども、これが正解でマルですよというものはないということですね。つまり白か黒か、メリットとデメリットにすぐ分けて考えてしまう、そういうことは非常に危ういということを考えてもらおうということです。第1巻の問いかけの例として例えばテーマ10、世界に広がる貧困格差のところですけれども、ここは全体の問いかけのテーマとして、帯のところに掲げました「経済成長はみんなを幸せにした?」という問いかけを取りあげてみます。一般的にこれまでの経済政策というのは、成長しなければ幸せにならない。成長して色々なものを皆がたくさん持って、たくさん色んなサービスが使えるようになるということが幸せになるっていうことだと考えてきました。特に高度経済成長の時代というのはそうだったと思います。ところがモノがいっぱい増え、サービスもたくさん増えてですね、GDPも増えてきているんですが、モノが溢れてくると逆に、モノの豊かさを求めたいという考え方とGDPの大きさは、あんまり関係がなくなってきます。GDPはまだ伸びていますけれども、モノを求めたいというそういう回答が横ばい状態になってきています。一方で、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はさらに貧しくなっていくという現状もあります。富が偏在している。想像つかないほどの資産を持っている、個人用のジェット機を持っている人がいるかと思えば、その日の食べ物にも苦労している、そういう人たちもいるという非常に大きな格差が生じてきている。それが日本でも同様だと、決して世界の問題だけではなくて、他人事の問題ではなくて、身近な日本の足元にも、それと同じような貧困が生じている。特に自由な働き方というふうに言われている中で、大変不安定な状況に置かれている人たちがいるというような点について強調いたしました。

 2番目はクリティカル・シンキングということですね。これは通説や公的な説明、政府の見解を鵜呑みにしない。自分の眼と耳と頭で考えてみる。その上でロジカルに考えていく。論理的に考えるということです。ここでは体感、体で感じること、直感、そしてクリエイティブ(創造)な力ですね。もう一つはイマジネーションの方の想像力もそうですけれども、両方のソウゾウリョクが重要だというふうに思っています。例えばテーマ8で、農業と感染症の関係について説明しています。そこではいわゆるコロナ禍ですね、これが新型コロナウイルスによって広がっていったわけですけれども、これは野生動物のウイルスが人間社会に持ち込まれた結果で、しかも人間の交渉の範囲が非常に広がっている。世界的な規模に広がっていることによって、パンデミックになっていく。農業以前の社会だとパンデミックは起きない。せいぜい700人、800人くらいにとどまってしまう。つまり、もっと早く、もっと遠くへと世界を変えていった結果なんだという、そういう説明になっています。

 3番目が個人の問題と構造的な問題を両方ともにらみたい、両面を考えたいということですね。環境の問題ではよくライフスタイルを変えることが大事だと言われますけれども、それだけでは不十分で、その陰に隠れてしまっている問題にもちゃんと気づくということをかなり重視したつもりでおります。第1巻の例としてはテーマ3で、立ち上がるZ世代、これを学生さんに書いてもらいましたけれども、そこではですね、例えば有名なグレタ・トゥンベリさんが投げかけた問題なんですけれども、それは決してライフスタイルを変えることだけではなくて、そこからもっと多面的・多層的な問題に関わっていくマルチ・イシューとして捉えることが大事だということです。そのことは、何と言いますか、なかなか手が届きにくいと思いがちなんだけれども、そうではなくて、個人として取り組むことができるその選択肢の幅が拡がるんだというふうに考える。そこでできることからシステムチェンジに取りかかっていく。それから様々なスケールで、合意形成が可能になるんだと、そういう捉え方をしたらどうかという提案をしています。

 次に4番目の特徴ですけれども、3番目の特徴とかなり似通っていますが、できるだけ全体を見通す眼力を養うということを意図したつもりです。上手くできたかどうかはなかなか難しいところではありますけれども、少なくとも意図いたしました。で日本の常識、ここでは前回、関根さんのご報告の中にもありましたけれども、世界の見方は様々です。日本の常識と世界の常識がズレているということもしばしばあります。第1巻ではテーマの22、食への権利と食料主権の実現に向けてというものを設けました。食への権利は食料安全保障という考え方と非常に近いというか、似通った点があると考えられがちですが、日本の考え方は供給重視なので、国産でも輸入でもいいんだと、というような捉え方です。それで本当にいいのか。それが世界のおもな流れなのか。と言うと、決してそうではなくて、食への権利、食料主権が主流になっている。食料主権が主流になっているかどうかは、ちょっとまだ微妙なところがありますけれども、食への権利というのは、国際人権規約の中に盛り込まれていて、世界人権宣言以来ずっと引き継がれているものになりますね。そういうようなところから、世界の常識と日本の常識とは必ずしも一致するとは限らないということを述べています。

 また1巻の構成ですが、非常に色んなものを取り上げています。ここでは1つひとつは申し上げません。地球の気候変動では特に気候正義とかZ世代の動きとかが注目されるかなと思います。生物多様性と農業の問題については、単なる生物多様性だけではなくて、生活文化多様性にも注目しています。外来生物が単に迷惑だと言うだけではなくて、違う捉え方をするとか、農業についても環境を作っていくというような捉え方をしている。それから感染症のところでは、コロナで日本の持っている社会病理が明らかになってきたというようなことを説明しています。

 次のセッションとして、飢餓と肥満、それから都市化と食・農ということを説明しています。飢餓のところでは貧困格差や飢餓と肥満を同時に考えている。あるいは食堂の中でも子ども食堂の非常に多面的な展開ということについて説明しています。過疎過密問題については、ちょっとだけ報告スライドから外れさせてください。先日、藻谷浩介さんが毎日新聞のコラムで過疎について書いています。日本では過疎過疎って言っているけれど、過疎地域の人口密度は世界でみたら、結構標準的なもんだと指摘していました。日本の平均の人口密度が多すぎて、過疎地くらいの方が適度でいいんだと、いうようなことですね。そこでちょっと調べてみました。日本は平均して343人、過疎地域が今、70人です。そこだけみると、確かに大きな差があるように見えますが、イギリスが平均で274人、ドイツで230人ですが、クロアチアだと71人。それからマレーシアだと99人なんです。そういうふうに考えてみると、過疎過疎って言うけれど、そんなことないと言ってもいいんじゃないかということが確かに言えるなというふうに改めて感じた次第です。

 それから紛争と難民。これは他の類書ではあまり扱っていない問題かと思います。扱いにくい問題でもありますけれども、本書では世界の難民問題とか、それからエスニック食文化の話とか、アフガニスタンの中村哲さんの実践などについて述べています。それから平和と食・農の関係。これも他の書ではなかなか取り扱っていない分野の問題だと思います。それで先ほど申し上げた食への権利と食料主権の問題とか、障害のある人と農業、最近では農福連携というふうに言われるようになりましたけれども、そういう取り組みですね、といったような点について述べています。

 そして今日の後の議論につながるところでありますが、未来への提言ということで、小さな農業とか田園回帰とか、それから教育について、かなり力を入れて書いています。学ぶ場としての学び。何々(素材)で学ぶ、何々(対象)を学ぶ、それから何々(手段)から学ぶという、学びの多様な面に焦点を当てています。最後にパラダイムシフトに向けた深い学びと変える力を提案しております。

 以上の流れから、だいだい分かっていただけたかと思うんですが、思いとしては地球は病んでいる。しかし希望はあるんだということをメインメッセージとして出したつもりでいます。その希望に向けて病んでいる地球をどう変えていくのか、変えていくためには前提としての自覚ですね、病んでいるという自覚と、希望があるんだという両方の自覚をしていくことが大事だろう。そういうための変革に向けたいざないをしているというふうにご理解いただければありがたいと思います。

 したがって、1巻のおおまかな流れは、地球が病んでいるということ。それに対して、国際社会や政府や地域社会はどんなふうに対応してきたのか。それぞれのプラスマイナス、成果と限界といったあたりを書いてきました。それで最後に病んでいる地球を治すための未来への希望を語るという構成になっています。

 以上を踏まえまして、今日の対談の中では、2つの論点について、議論したいと思っています。1つはグローバリゼーションと農ということですね。これはグローバリゼーションが農と食の場面でどんなふうに表れるか、日本では特に2020年以降のコロナ禍、それから2022年のウクライナ戦争の影響ですね。気候変動はもう前からあるわけですけれども、ここ数年、特に大規模な水害、洪水という形で実感できるようになってきているかと思います。そういうものが農業や暮らしにどんな影響を与えてきたのか。それに対してどういう対応をしてきたのか。例えば地域での自給、自分の家での自給力を強める。地域の力をどんなふうに発揮されたのか。この点については斎藤さんにお願いできるかなと思っております。

 それから今日、対談の相手として登壇していただきます田村さんですが、田村さんはブラジルの研究者でもございますので、後ほど自己紹介をしてもらいますけれども、ブラジルの研究者でもありますので、特にコロナ禍の下で明らかになった格差について論じててほしいと思います。コロナで亡くなった人については、ファヴェーラという貧困地域に住む人たちと、ほかの地域の人たちとの間で大きな違いがあります。こうした格差の大きさを中心にお話をしていただけないかなと思っています。

 で、もう一つの論点ですけれども、今まで申し上げたことだと、まだ何となく他人事のように思えてしまうかもしれない。それを自分事化することですね、グローバルな問題を自分事化するにはどうすればいいかということで、やはり教育というのが大事だろうということになるわけです。そのときにESD、つまりサスティナブル・ディベロップメントのための教育において、「食と農と私とのつながり」、これは田村さんの執筆いただいたところの副題ですが、私とのつながりということを上手く伝えることができるかどうかというのも非常に大事じゃないかと思っています。そのための工夫や手ごたえ、色んな取り組みが可能だと思います。勘どころはどのへんにあるのかということですね。このあたりについて議論できたらいいなと思っています。特に最近の農とか食についての実際の経験は、農家の子どもでも非常に弱く、薄くなっている。頭で食べるということが非常に多くなっている。なかなか身体で食べることにならない。お腹が空いたと言って食べるよりも、時間になったから食べるとか、目で食べるとか、そういう状況になっている。頭で習うということで、身体で習うということになっていない。そういうところをどんなふうに超えていったらいいのか、ということも考えてみたいと思います。もう時間になりましたので、ここらへんで次に行きたいと思いますが、農と食の視点から生きる力、自ら考える力をどう育んでいったらいいのかというときに、文章としては新教育指導要領とかESDについての文科省の説明ですとか、高校地理の必修化ですね、このあたりは今、私たちが希望として考えていく、深めていく上で、参考になる考え方を示してくれています。探究する力を農林漁業を介してどんなふうに探していくのか、こういうことを、お2人のご紹介の後の議論・質疑の中で深めていけたらいいなと思います。

 あと、このスライドは残された論点なので説明は割愛しますが、資料としては残しておきます。後で、もし時間があればこれについてちょっと触れたいと思います。次のスライドは最後のメッセージです。私の好きなボブディランの歌のように、時代は変わるということです。The Times They are Changin,。。それからオバマ元大統領のWe Can Change!です。時代は変わるし、変えることもできるという確信を持って、一歩でも進めていきたいと思っております。以上でございます。ここで、一応、1巻の構成についての説明は終わりにしたいと思います。

 それでは、今日の議論に向けて、まず第1巻について、出版社としてどういった思いを持っておられたのかというあたりについて、ご紹介していただきます。第1巻をご担当いただいた農文協の阿部さんからお願いしたいと思います。

*阿部さん(農文協)

 はい、ありがとうございます。農文協の阿部と申します。今回の『テーマで探究』シリーズは、農文協は3人で編集を分担しております。私は企画段階と第1巻の編集を、前回の研究会に出ていた阿久津が全体のデザインと進行、第2巻を担当しました。第3巻の担当が田口でして、農文協が苦手な林業と漁業分野ということで手練れの編集者を配置しました。田口は今日、農民連にお邪魔しておりますので、あとでコメントをさせていただくかもしれませんが、よろしくお願いします。

 私からは第1巻に込めた出版社側の思いについてお話します。といっても、シリーズ全体にも関わってくるですが。最初にこの企画について池上先生、斎藤さん、それから関根先生からお話があったときは、家族農林漁業のもつ現代的な価値について小中学生に理解してもらう本をつくるというのは「よし来た」と思いました。

というのは、農文協は家族農業と非常に関わりが深い出版社だからです。もともと小農主義の立場でしたが、戦後も昭和40年代はじめまでは農業と農村に近代化を進める立場から雑誌や書籍を出版してきました。その近代化路線の矛盾が噴出する中で、「自給的小農的複合経営」をモデルとして掲げる方向に舵を切りました。この言葉はぜんぜん流行りませんでしたけれども(笑)、当時は農水省の外郭団体だったんですが、結構、農水省の近代化路線というか構造政策に楯突いて、モノ申す出版社になったという経緯があります。近年では、前回の研究会でもお話が出ましたが、関根先生が中心となったFAOの家族農業に関わる報告書の翻訳本やブックレット『よくわかる「国連家族農業の10年」と「小農の権利宣言」』などを通して、家族農林漁業を評価する世界的な流れを早くから紹介してきました。その意味では、まさにFFPJが目指しているところと農文協がやってきたこととは、大きな一致点があると思っております。

 ということで、総論としては企画に大賛成なのですが、問題はどうやって読者ターゲットを絞っていくか。その意味では、さきほど池上先生のスライドの最後に出てきた「地理総合」必修化の動きが大きかったと思います。農文協はもともと農業高校とはつながりがありまして、以前は教科書も出していましたし、農業関係の出版をしていますので、農業高校の先生や生徒には馴染みがあるのですが、その他の高校はなかなか敷居が高い。そのなかで編著者のみなさんから「地理総合」の動きをうかがって、企画の軸がはっきりしてきた。巻構成も実は迷走したのですが、「3巻で行こう」となり、コンセプトも固まってきたということなんです。

「地理総合」はグローバルとローカルをつないで、最後の単元では「生活圏での探究」をテーマに掲げている。これを実際、高校の現場でやっているかどうかというのは、また問題があるんですが、少なくとも単元として設定されているということは重要で、まさにこのシリーズの狙いに合致するんじゃないか。農業高校では実際に地域課題に答えるプロジェクト学習がずっとやられてきたのですが、普通高校で大学受験の手段としての教育から抜け出すような動きが出てきたというのはすごく大きい。そこに関わることができたということはとても嬉しいことだと思っています。

 そうしたシリーズのなかで第1巻では、気候変動とか紛争と平和とか格差とか、そういった大きな問題は、農林漁業を各地でしっかりやっていけるかどうかということと、実は密接につながっているということを扱っているわけです。そこに多角的に光を当てるために、池上先生を中心に30人近い執筆者をリストアップしていただいた。執筆者については1巻、2巻、3巻でちょっと傾向が違っていまして、第1巻と第2巻は池上先生、関根先生とつながりのある方もいらっしゃるけれども、半分以上はそうじゃなくて、今回初めて接触して方々なのですね。ですから原稿依頼も結構、ドキドキです。所属や職業、世代もバラエティに富んでいまして、先ほどの一覧を見ていただいて分かるように、現場に近い研究者、田村梨花先生のような方が多いのですが、ほかにも例えばZ世代の代表として現役大学生で青年NGOの古賀瑞さんが入っていたり、WFPの中井恒二郎さんやFAOの竹之下佳代さんなど国連機関の最前線で働いている方がたにも参加していただいています。

実は、原稿を依頼したときには、長年編集者をやっている勘からして、少なくとも3分の1以上の方から断られるだろうなと思っていたんです。締め切りも結構、近かったのですが、蓋を開けてみるとほとんど断られない。それは池上先生のモデル原稿を付けて、ページイメージも付けて、本のコンセプトが伝わりやすかったということもあるでしょうが、何より「こういう企画だったらぜひ参加したい」という形で、皆さん、意気に感じて書いてくださるということで、本当にありがたいと思いました。

 ちなみに、第1巻では農文協の職員も一人参加していて、橋本康範が「アフガニスタンの平和と水」というコラムで、中村哲さんが用水路を作ったときの話を書いています。彼は今、農文協の東北支部長をやっているのですが、以前ペシャワール会に入って用水路づくりに参加し、中村哲さんと寝食を共にした経験があり、中村さんが「斜め堰」のアイデアを思いついた時の貴重な体験を書いてくれました。

1巻にかぎらずこのシリーズでは、編著者の皆さんと各巻30人を超えるような執筆者の皆さん、それに我々編集者の思いがつながったなという思いがしました。原稿依頼の段階で、「これは成功するんじゃないか」と確信した次第です。そんな感じで、とても面白く仕事をさせていただいたのですが、それに対する反響については時間がありましたら後ほど、話したいと思います。貴重な時間をいただきまして、ありがとうございました。

*池上さん

 はい、どうもありがとうございました。最初にちょっと申し上げるべきだったんですが、今日の対談は今までと違いまして、オンラインではなく、農民連の事務所で、対談者が実際に対面して議論をしております。顔を見ながらということになります。それから、先ほどちょっと阿部さんの方からご紹介がありましたが、同じく農文協の田口さん、第3巻の担当でございますけれども、田口さんにもご参加いただいております。後ほど、感想をいただきたいと思っております。ということで、ちょっと違った試みになっていますので、どんな感じになるか、最後までお楽しみいただきたいと思います。

 それではこれから最初に、斎藤さんの方から時間を切って申しわけありませんが、10分で少し論点に関わる内容をご報告いただきたいと思います。

*斎藤さん

 斎藤博嗣と申します。今回、第1巻の編集と寄稿もさせていただきました。池上先生と同じようにFFPJの常務理事もさせていただいています。よろしくお願いします。簡単に自己紹介をさせていただきますが、私は一反百姓「じねん道」斎藤ファミリー農園という屋号で小さな家族農業をしています。2005年東京から茨城に移住する前、私は板橋区、この農民連さん本部近くの、ここから5分くらいの距離のに住んでいました。東京から茨城県の南部にある阿見町の農村に夫婦で移住して新規就農し、子ども2人と共に、ここに写っているのは子どもがまだ小さい頃ですけれども、今は高校2年生と中学2年生になりますけれど、4人で小さな家族農園をしております。

私たちの取り組んでいるのは、緑の百姓哲学、福岡正信さんの自然農法を実践しており、アグロエコロジーであったり、地球を生かす農、地球で生きるための農を実践しています。私たちが目指す生活スタイルとしては、農業ということで、もちろん農産物を売って、作物を換金して暮らしをしていますが、一番重視している点は、ワークとライフの中心に農を基盤として置くことを最も重視しています。むしろ農業を生業としているというよりも、農的暮らし、農的ライフスタイルをおくりたい想いで、私たち夫婦は東京から茨城に移住しました。老若男女共同参画の家庭円満農業、家庭関係を何よりも大切にできる農のあり方を何とか模索し、現在20年が経ちます。私たちは「百姓は24時間、365日、自学自習」というような呼び方をしているんですけれども、私ももともとはサラリーマンでベンチャー企業で働いて、マネジメントが仕事だったんですけれども、本当にブラックな働き方をしておりました・・・。自分の人生を自分で作りたいという思いから「生き方」としての百姓に取り組んでおり、「暮しが仕事、仕事が暮し」を理想に生活をしております。子どもたちと共に、五感をすべて研ぎ澄ませる野良仕事を通して、等身大の自分に気づく。自分の手足、腰、五感を使って生活したり生きることは、今、スマホであったり色んなデジタルな技術もたくさんありますが、自分の本当の自分の大きさ(サイズ)を知るということは、今、内閣府とかもムーンショット計画とか言って、時間と空間からの解放に向かっていくんだというようなことを言っていますが、私はむしろ、「耕す(Cultivative)」というか、「身体」に戻っていく、デジタルが流行るからこそ、農の価値というか意義がますます高まると思っています。

 私の屋号のじねん道というのは道なんですけど、子どもたちは「童(わらべ)」で「じねん童」と呼んでいます。「自然は無教育にして最大の教育者」現代は自己肯定感が育まれにくい時代と言われていますが、本当の自己肯定感、他者との比較ではない自然(じねん)ですね。西洋のネイチャー「征服すべき自然」ではなく東洋の自然(じねん)、「内なる自然」「自ずから然りの力」を身につける暮らし方だと思って小さな家族農業を取り組んでおります。スライド『家族農業の食卓は、地球と地域の無形文化遺産』毎日、庭で食べてるわけじゃないんですが、この写真は農文協さんの子ども農業雑誌「のらのら」の取材の時に、記者の松下さんが撮影した写真です、いつも庭で食べているんですかって?この写真を観た人に聞かれますが、そんなことはないですけど(笑)、このような「農的ワーク・ライフ・バランス」をして20年が経ちます。

 『ほんとうのグローバリゼーションってなに?』の本の中で、私は「1人ひとりが農から生きる力を学ぶ」をテーマとして、私の子どもたちが通う小学校で(小規模特認校、2023年全児童数52名)小さな村にある学校だからこそできる事例等を紹介させていただいたり、私の考えを寄稿させていただきました。対談の中で話すこともあるのでスライドに掲載いたしましたが、割愛していく部分が多いですが紹介いたします。もともと私の寄稿した理由として、「文化:カルチャー(Culture)」の語源は、は、アグリカルチャー(Agriculture):農業」から栽培するとか、耕作するから来ていますが、よく文化(カルチャー)、カルチャー(文化)と話題に出たり、口にすることは多いですが、本来の農業から派生している意味や意義が失われている・・・。例えば、「幸せの種を蒔きましょう」とか言いますが、種を蒔くという行為、本当の種(タネ)は蒔いていない。幸せの種(タネ)を蒔くことはどういうことなのだろうか?本当のカルチャー「耕す」の復権というか、カルチャラル・スタディーズという学問も研究されていますが、「真のカルチャー」というのは、何なのかということを、私にとってのテーマとして百姓の現場から私案(私の造語)として「Cultivative Learning(カルティベイティブ・ラーニング):CL学習」寄稿させていただきました。

 本の中でも書いていますが、農業にかぎらず、AIなどテクノロジーによって仕事がなくなり、学校教育においても暗記は過去の学習法となり、人間はより創造的な仕事を担うべき?だと言われますが、一方で、地域ではマネジメントする人材が不足している。池上先生が先ほどすごくいい事例をお話頂きましたが、クロアチアの例から観ると日本は過疎化していない論ではないですが、よく日本の家は猫の額とか箱庭だと揶揄されてきましたが、モノサシが変われば価値観も変わるように・・・。人間が役に立たない時代とともに、人間が不足しているという、こういう相反する状況が併存する時代に、農業であったり、農村にはどのような可能性があるか。欧州ではギリシャであったり、フランスで、大学を卒業した人が新農民として農村を目指し、失意の中に質素な生活を求めたりしています。話が変わりますけれども、ギリシャは、直に私が行ったわけではないですが、DIYパラダイスと言って、さすがソクラテスの国というか、自分たち暮らしを作るという・・・ちょっとギリシャへ行ってみたい!

 この前も上智大学で隣にいらっしゃる田村先生のご紹介で授業をさせていただいたんですが、「農=(イコール)農業」やっぱり農というと農業というイメージで、一年中忙しくて大変ですねーとか、農作物が安くて生活できるんですか?というような観点がほとんどの人のイメージですけれども・・・。上智大学の授業で「人は生きるために働いているんであって、働くために生きるのではない」とお話したときに、ドン引きするかなと思ったら、その言葉にすごく反応がかえってきました。先ほどAIの話もしましたけれども、先が見通せない時代の中で、「農」であったり「生きる」ということの根本が問われている。特にこの本『テーマで探究 世界の食・農林漁業・環境 全3巻』は、特に高校生、そして、大学生、中学生、小学生の活用してもらうのを視野に、ぜひ読んでもらいたいと構想し「クリティカル・シンキング」(論理的思考)を主眼にできあがった本ですが、食・農林漁業というものを生きる手段としてのベースに置くということが、どれだけ自分を支えるものになるかということも見直して欲しい。いわゆる「レジリエンス(回復力、生き延びる力)」=と言われていますが、災害なども多い中で農的暮らしが、本当に精神と肉体の支えになる「地力」だと考え、私も取り組んでおりますし、ぜひ学生の皆さんに、農林漁業のもつ「地力」見直して欲しいなと思っております。

 文科省の総合的な人間力の土台を作る「生きる力」、例えば農学は「総合科学」(生物学、化学、物理学、工学、生態学、地球科学、社会科学、人文科学など)を指向する学問といわれますが、「農」の持つ総合性を生かすには、何よりも田畑山林の現場において 全身感覚で身につける 実践「生きた学び」が必要ではないでしょうか?私の地元・阿見町には、茨城大学の農学部がありますが、白衣を着たまま1回も土に触らないで卒業するとかですね、そういう学生ばっかりじゃなくて、アグロエコロジーの先生もいらっしゃっいますが・・・。農も多様化してますが、農の持つこの「生きた学び」というのができるのが、農業や農学にこそ、アグロエコロジーもそうですけども、あるんじゃないかと考えています。地方では地域の学部が花盛りですけども、ぜひ上智大学にもですね、文系・理系を超えた観点で農学部がない大学にこそ農の価値を見直すカリキュラムが増えていって欲しいなと私は個人的に思っています。

 私案「Cultivative Learning(カルティベイティブ・ラーニング):CL学習」。これは実際はアクティブ・ラーニングに対抗をして・・・してないですけれども(笑)、アクティブ(active)というのは、何かに向かってアクト(行動)する、活動的であるということ自体はマイナスではないかもしれませんが、新自由主義とまでは言いいませんが、志向性が右肩上がり・・・。アクティブというと何かを達成するっていうことが目的であって、何に向かっているのかというのがない。カルティベイティブというのは、農を礎にサスティナブル(循環)する、地域や地球環境と共にあらゆる人間の生活が循環していく営みの中にある学びに意味が見出されると思うんです。「カルティベイティブ」農の持つこういうサスティナブルな価値観というのは、今後、ポストSDGsは「ウェルビーイング(Well-being)」と言われていますが、身体的・精神的・社会的に良好な状態、ウェルビーイングを高めるために、私は農であったり、農的生活は不可欠だと思っています。農に関するローカルな知は農家の土地に根ざした経験の蓄積からなり、生存の必要性から生まれた生活知、在来知、伝統知、実践知として得られた「身体知」から成り立っている。そんな中で、私は農業者をファーマー(Farmer)、アグラリアン(agrarian)という言い方でもいいんですけど、、、「真の耕作者」という概念で真の「カルティベイタ―(Cultivator)」と提起したい。子どもたちもぜひ、そういった観点で農民イコール貧しい人たちだとかではなくて、生きる上で、本当に必要なことを身につけている農家から学ぶ、地に着く姿勢を持って、永続可能な社会を作っていく「真のカルティベイタ―」の育成が農を通してされていくことを願って、「CL学習」を提案しています。新自由主義から新自給主義へ、CL学習による一億総生涯現役社会、総でなくてもいいんですが、地方創生と人生100年時代、「究極の働き方・暮らし方」として、100年という生涯のスパンの中で、私ももう50歳ですけど、あと50年、こういった形でCL学習に取り組んでいきたいと思っています。

 最後にちょっと整理させていただきますけど、上智大学で『食と農と身体』という科目の中で、地球市民皆農~農から「善く生きる」というタイトルで授業をさせていただきました。カルティベイティブ・ラーニング(CL学習)は、自ら種を蒔く人になり、自らを描き、意味づけ、善く生きる主体者が育成されることが目的です。地球的危機の解決には、ゴッホの描いた『種を蒔く人』のように、自らタネ蒔く人になって、1人ひとりが1粒でもタネを蒔いて、農による地球市民としての意識改革が必要です。

 地球市民の一人として、この本『ほんとうのグローバリゼーションってなに?』であったり、『テーマで探究 世界の食・農林漁業・環境 全3巻』の本を通し、地球と私たちをつなぐ羅針盤として、今後活かしていただけたらなと思っております。

*池上さん

 はい、ありがとうございました。ご質問があろうかと思いますので、チャットに書き込んでいただければ、ありがたいと思います。引き続きまして、田村さんからご報告をいただきたいと思います。よろしくお願いします。

*田村さん

 よろしくお願いします。上智大学の田村と申します。今日は今回の「ほんとうのグローバリゼーションってなに?」という本の一番最後にコラムを書かせていただきました「『ノンフォーマル教育』から学ぶ食と農と私のつながり」ということで、基本的には書いたことを中心に話をさせていただければと思います。よろしくお願いします。

 簡単に自己紹介をさせていただきますと、自分の専門はブラジル地域研究で社会学をしています。もともとブラジルの音楽が高校生のときに好きで、文化からブラジルに興味を持ったという形で研究の道も決めました。学部時代に留学をしてブラジル社会を体験したということも大きいんですけど、そこで目にした貧富の格差の問題とかをやはりそのままにしておけない、自分でもうちょっと解を見つけたいということもあって、就職を経て社会人をやっていたんですけれども、その後、大学院に入り直して、研究テーマとしては、ブラジルの当事者の運動に当時から関心があったので、社会運動、あと市民社会がどういうふうに作られてきたかとか、あとは具体的にはブラジルのNGOが展開するノンフォーマル教育というのをテーマにしています。

 私は長野県出身です。もともとの関心は開発がどのように功罪を作ってきたかということから、ブラジルと日本だけじゃなくて、様々な国同士の公正な関係性というのに関心があって、そこからフェアアトレードとかオーガニックの関心も個人的に持ったりしています。で、ノンフォーマル教育って、あんまり使われない言葉なので、ごく簡単に概念をまとめたんですけれど、非常に幅広く曖昧な概念です。で、フォーマル教育というのが学校教育があって、一応、それと反対に位置するものでノンフォーマルというふうに呼ばれて、具体的には学校外教育とか非正規教育とか、定型的ではない教育という位置づけなんですけど、それと軸を同じにして考えると、国家のカリキュラムに則って行なっているものがフォーマル教育、それじゃなくして、もっと地域とかコミュニティとか、学びが必要なところから何を学びたいかというのが文脈化されているような学びの場を形成して、自分の問題点から出発する学びというのをノンフォーマル教育っていうイメージを非常に強く持っています。ただ非常に定義が曖昧なので、ノンフォーマル教育をしているんだけれども、実際には学校の中でやっているとか、柔軟な学校教育であったりとか、もっと突き詰めていくと参加型教育というものもあるんですけれども、国によってはノンフォーマル教育局というのが国の中にできているようなタイとかバングラディシュとかインドネシアとか、そういうところもあるんですけど、国や地域によって多様ということですね。

 で、ブラジルについてはノンフォーマル教育の歴史というのが、民衆教育とすごくつながりがあって、社会運動と関係しているんですね。ブラジル側の社会運動なんですけれども、ブラジルが軍事政権の時代が21年間あって、その後やっと民主化されて、民主憲法が88年にできたという歴史があります。その当時、軍事政権の間で、言論の制限があったりとか、ちょっと説明していますけど、反体制派が逮捕されたりとか、そういう時代があった中で、人々の生活を維持するために、皆が助け合っていった。草の根レベルで支える。支える組織ってありますけど、自分自身で自浄的な形で生まれてきた社会運動の組織がたくさんあって、それが今のNGOであったりとか、社会運動とか市民社会につながっているということなんですね。その歴史を追いながら、当時あった民衆組織がNGOになって、民主憲法が1988年なので、実はそんなに昔のことではないんですけれども、その憲法をつくるときに、今までの反省を超えて、数多くの社会運動組織が自分たちが活動してきた中で、憲法のこれを絶対入れなきゃいけないということを、様々な観点から盛り込んで、一応、写真が山積みになっているのが、要は人民案って言いますか、人々が当時はパソコンがないので、手書きで書いたものを皆で運んで持ってくるっていうような写真なんですけれども、あらゆる観点において、基本的人権を盛り込むということに尽力したという歴史があるところなんですね。

 私にとっては教育のあり方というのが、作られた教育というよりは、自分たちが学びたいことを皆で意見を出し合いながらするというのがすごくイメージにあって、やっぱり今日のテーマが食と農なので、ブラジルはアグロエコロジーの歴史がやっぱりすごくあるので、地域社会が抱える課題と関連づけて実践される地域住民主体の学びの場の中で、農に関するものがすごくたくさんありますね。非常に有名なところだと、ただ農村地域の土地なし農民運動ですとか、こちらの方はあとで課題の対談のところでも出てくるので、ちょっと写真を見るだけなんですけど、土地なし農民運動は84年にできている団体ですし、あとは右側のG10ファヴェーラというところは、ここはサンパウロの貧困層のファヴェーラというところに生まれたネットワークなんですけど、そこはもう都市の真ん中なので、農地はないんですけど、これも後で話しますけど、都市の人が食料主権を自分たちのものにするためにっていうふうに始まった農園づくりなんですね。そうしたものもあります。

 これもご紹介したいのが、私自身がもう20年以上も付き合いがブラジルの北部ですね。アマゾン川の河口に位置しているようなところにある、ベレンというところにある郊外のコミュニティの学校、ここは70年にできたところなので、もう50年くらいの歴史があるんですけど、地域社会から生まれたところで、有機農業をやっている立場の人とか、あともともと農村に住んでいたけど、都市化で都市に出てきた人なんかが多いので、自分の家で空いているところを使って野菜を作りたいという声をもって、じゃあ私たちの活動の中にこの小さな農園を作るっていうのをやってみようかって言ったら、そのブラジルの農牧研究公社が有機農法を展開しているところがあるので、じゃあそこでジョイントして、こういうプロジェクトをやってみようかということで始めたプロジェクトを紹介しています。で、そこの写真をちょっと現地の方からいただいて、色んなことをやっているんですけど、で、子どもしか写っていないんですけど、実際にはこの畑を運営しているのは地域の大人の方が集まって来て、土壌作りとかそこから全部やっているんですけど、貧困地域の近隣から、自分もともと都市に出てくる前はやっていたんだよね、みたいなそういう経験をその場で発揮したりとか、手伝いに行ったりとか、あと畑で採れた野菜は近隣のコミュニティの人に安く販売をしたりとか、そういうような活動をしているところでした。今でもそういう活動を続けているんですけど、住民が要は、食べ物は買うものっていうものだけじゃなくて作る側、生産者として関われるという場づくりをしているところです。

 今回、コラムの後半部分で書かせていただいたのが、私にとっては学びというものがやっぱり自分とどれだけ関わるかというのがすごく大事だなというのがテーマにあって、上智大学で教員をしているんですけど、上智大学、非常に国際的な問題を扱う授業がたくさんあって、グローバル・イシューはあるんですね。それと食と農の授業というのはいまいち、農学部がないということもあって少なくって、彼らはすごく机上の学びは豊かに持っているんだけど、それと日々の自分の暮らしというのが、どうも結びつかないというのが、すごくもったいないなというか、何かもうちょっと矛盾を感じていいんじゃないのみたいなのがあって、それでここにあるような様々な人権とかSDGsとか、皆そういう授業を受けるんだけど、自分自身とつながるにはどうすればいいんだろうって思ったときに、食と農をテーマにすると自分個人としての気づきの原点になるんじゃないかと思って、たまたま私がメンバーに入れさせていただいた「身体知領域」という、全学共通科目の中の、もともと保健体育科というところなんですが、もうちょっと幅広い、身体を通してのいのちとか、心とか、そういうのを結びつけるような身体知という名前で設定された分野があって、そこで新しい科目を高学年向けに作りたいということで、基盤教育センターの身体知領域の、全学共通なので全ての学部の学生さんが希望すれば取れる、ただ300人とか入る会場がないので、一応、200人定員というところで、設定したんですけど、食と農と自分自身を結びつけるというような科目ができたらいいねということで、テーマを食と農と、身体知なので「身体」というキーワードで入れての開講を、今年初めて行ないました。

 で、もともと保健体育の授業だと思って学生は来るんですね。これちょっとシラバスの文字が小さくて申し訳ないんですけど、よく見るとまず、食の話が書いてあって、スポーツとか自然とか身体っていう命と食というのを結びつけるような様々な輪講で色んな専門家の方にお話をいただいて、で、斎藤さんにも来ていただきましたし、関根先生にも来ていただきましたし、という感じで展開しました。テーマとしては、食から入るんだけれども、皆がグローバル・イシューとして学んでいる農業の問題とか、あとアグロエコロジーの問題とか、農の話をしながら、右側にいって食育ですとか、斎藤さんがカルティベイティブ・ラーニングの話をしていただきながら、最後に命をいただくとか、その心と身体を、自分を作っているものが食べ物なんだよねというような形で、本当に食をキーワードとして、食ってやっぱり誰もが関わることなので、学生にとってはただ食をそんなに意識してないところが、この授業を取ったことで、あっ、自分はこういうもので命を支えているんだとか、あと自分が食べたものに関わっている人がこれだけいるんだとか、すごい遠い国のはずのブラジルの食べ物をこんなに食べているのかとか、そんな形で非常に結びつけることができたんじゃないかなと思っているところなんですね。

 ただ今年初めての試みなんですけど、自分事としてそれを捉えることができるキーワードの可能性があるんじゃないかなと強く思ったのと、ただコラムにも書いたんですけども、やっぱり机上の学習と意思を結びつけるのは、想像するだけじゃなくて、やっぱり実践して、自分の身体でやっぱり感じるというのがすごく大事なので、本当はフィールドワークがとても必要なんですけども、ちょっと200人規模なので、フィールドワークがなかなかできなかったんですけど、コーディネーターをされている島健先生といつも話しているのは、本当は皆で畑に行って、半年の授業なんだけれども、ちょっと1年ペースみたいに植物を育てたりとか、そういうのができたらいいねみたいな話をしていたんですが、今、自分たちができる机上で終わらせないような、できるだけ自分のこととして考えられるような授業をどう展開できるのかというのは自分自身の課題でもあるという形です。すみません、ちょっと時間をオーバーしてしまったんですけど、ありがとうございます。

*池上さん

 どうもありがとうございました。議論にむけた問題提起をします。グローバリゼーションは色んな形で表れてきているんだけれども、それにどう対応してきたのか。すでに自給の話がちょっと出ましたが、そのへんをもう少し具体的に、斎藤さん、じねん道の自給の話と地域全体としての自給の話。そういうところを含めて少し展開をしていただけないかな。地域にはもう力がないよとか、あるいはこんな取り組みがあったりしてとかをお聞きしたい。学校とかでもいいですし、阿見町の小規模特認校でしたっけ、それだからできること、たとえば学年を串刺しにしたような、そういう取り組みはないでしょうか。

*斎藤さん

 私が個人として取り組んでいるのは、都市農村交流というと、東京から、大阪からとか大都市から来るということの事例が取り上げられることが多いですけれど、私の住む阿見町内の都市部にいる人と農村部にいる人の交流を主眼に置いています、近隣の方々なので、ですぐ来れるわけですし・・・。阿見町は現在、町なんですけど、2、3年後に市になるんですね。人口が5万人を超えるから市になるんですけども。それは農村部にどんどん人が増えて・・・と言いたいところなんですけど、そうではなく、高速道路のインターチェンジであったり、駅周辺近くの住宅再開発であったりの結果の人口増なんですが。先ほどウェルビーイングや生涯現役社会のお話をしましたが、耕作放棄地の問題とかも含めて、移住者の人たちが農村の問題を解決したいという思いを持たれている方も多くいます。池上先生が触れた、小規模特認校というのは、普通の小学校は小学校の区の人たちしかそこにある地元の小学校にしか通えませんが、小規模特認校は阿見町全体のどの地域からも通学できれるんですね。送り迎えを親御さんとかが自分たちでやらなきゃいけないなどの大変さとか、いろいろ問題もあるんですけども、実際、今、私の娘や息子たち通っていた小学校の生徒数4分の1くらいは、地元の農村部の子たちではなく、阿見町全域から通学している児童です。様々なバックグラウンド、都市部の学校のペースに合わないとか、不登校とか、色々な背景を抱えているんですけど、多様な子が小学校で学んでいます。(ちなみに校長先生は筑波大学の教授が校長先生をやられているんですけども)阿見町が町から市になるにあたって、阿見未来塾というのを町長が音頭を取ってやっていおり、1期生として私も参加させてもらっています。阿見町町内の都市部の人たちともっと近い交流で地域の・・・例えばですね、私もスーパーとか直売所で農産物を納品してもいるんですけども、ロシア・ウクライナ紛争などの要因による食品価格高騰の問題で、農業をやりたいという50代とか60代の人が私に相談、若い人というよりはむしろ、その人たちが第二の人生として、また副業として農業をやりたいと言う人も多いです。耕作放棄地を活かす一つの方策として、血縁・地縁・知恵を持っている人が実家や地元に戻って来て、UIJターンであったり、先ほどお話した小規模特認校に来た親子の方々だったり、マルチステークホルダーで、協力・強力しあえることができるんではないかと思って取り組んでいます。

*池上さん

 副業農業というお話が出たんですが、日本では専業信仰がずっと強かったので、もう専業でないとまずい、一時期には兼業農家雑草論なんていうひどい話もあったりしましてね、そういう中で、農家の兼業をもっと支援しましょう、支えましょうということも始めている自治体があったりします。それだけでなくて、さっきの国民皆農に関連するんですが、副業農業を、本業を持っている人が農業をやるとして、どの辺まで可能なんだろうか。ある程度、広がっていくと思います? それとももうちょっと政策的に何かしなきゃ無理なのか、やっぱり自分たちで食べるものは自分で確保しようというふうに思っていくのか、たまたまウクライナ戦争でもう食品価格が上がっちゃったんで、自分たちで作ってみようというふうに思っているのか、自分のもう少し、ちゃんとした食を確保したいっていう気持ちで定着していくのか、そのへん、どんなふうに思われますかね。

*斎藤さん

 やはり私みたいなタイプの個人は今SNSとかでつながって、自分で二重地域暮らしとか、ものすごい盛んで、それを集約するサイトとか千葉とかにもありますけど、50代兼業農業とか。あと例えば上智大学の例で言えば、東京のど真ん中の四ツ谷キャンパスではなく、神奈川の秦野キャンパスがある秦野市はJAが市民農業講座とかを開いていて、確か300坪からできる小さな農業みたいなことをトライしているんですけども、地域がそれを気づいてやっている自治体であったり、そこはJAもやっていますけど・・・。だから個人での取り組みであったり、大きな流れとしては、東京だと有楽町駅前の交通会館にある「100万人のふるさと回帰・循環運動推進・支援センター」であったり、私も利用した麹町の「全国新規就農相談センター」とかもあって、新規就農へさまざまな参入の形があると思うんですけど、アプローチの仕方はかなり多様だというのが私の捉え方ですね。

 あとはもう一つ、池上先生が提唱されている「アグロ・メディコ・ポリス:農の福祉力」、医療としての農業という観点で、私がスーパーに農作物を卸しにいくと、お年寄りとか60、70とか、80代の方が、やっぱり行くところがないからスーパーの中をウロウロしている中で、私が直売所コーナーで値段をつけて農産物を納品している時にすごく羨ましそうに、「俺も農業したいんだけどなー」とか言われるんですね。だから医療というか身体を動かすということであったり、食べるということもそうですけど・・・。「カルティベイティブ(Cultivative)」というのは、農作業する行為そのものをもっと見直す、作る行為そのものがエクササイズじゃないですけど、病院とカルティベイティブ・ラーニングとかもつなげて農の福祉力を活かして取り組む。池上先生や田村先生とも関係の深い長野県とかはそれはすごく盛んだと思うんですけども、予防医学に立つ農村医学、地域医療を確立した佐久総合病院の若月俊一さんは、日本有機農業研究会の創立にも関わったように、「土と医療と農」は親和性が高いと思うので、無限の可能性を持っているなと思うんですけども。

*池上さん

そこは、日本の農協の特徴として医療厚生連がある、医療生協というのはもちろんありますけどもね、医療生協さんは農業まで持っていないので、厚生連農協がその辺をもう少し、ぜひ自覚的に取り組んで行けるようになっていると、もっと広がっていくなという感触があります。

*斎藤さん

 病院に直売所があったらなといつも思いますね。

*池上さん

 佐久病院にはおばあちゃんの直売所があるんですよ。で、私が調査したときには、リーダーの方は代表が70なんぼかな。で、その前代表は、あの当時は90歳を超えていました。旦那さんと自分でそれぞれ1反ずつ農地を担当して、それぞれの売り上げは自分で処理するという、もう私の運転よりはるかにすごいスピードで軽トラックでピューっと走っていくんですよ。軽トラで、野菜を持ってきて、売っていく。それぐらい元気なんですよ。そういう方たちももちろんいて、そういうところと病院なんかとをリンクさせていくと非常にいいと思います。

*斎藤さん

 お医者さんが処方箋で、「あなたは無農薬の野菜、ナス、今日は5本買っていきなさい」とか、処方箋に玄米、雑穀、大豆1袋とか、クスリの代わりに農産物を、お医者さんが書いて欲しいな(笑)

*池上さん

 ちょっと話がここからもっと広がりそうですけども、もう一つの方の、ブラジルでね、先ほどの論点1として、そのグローバル化の結果として出てきているコロナ禍の下で、どういうふうな助け合いとかね、対応をしていったのか、地域の力とかについてちょっとご紹介いただけますか。

*田村さん

 ありがとうございます。スライドの5ページ目を共有していただいてもいいですか。今、なんかすごく盛り上がっているところなんで、ちょっと考えるところなんですけれども、先ほどちょっと紹介させていただいた、要は食と農とつながるような活動で社会運動をしている団体の有名なところでは、私が実際、論文とかで扱った団体の1つは、農村で何で土地なし農民かというと、あまり長くは話さないんですけど、ブラジルもやっぱりポルトガルの植民地だったということで、大土地所有制がずっと定着しているところなので、土地を持たないで元奴隷であったアフリカから連れてこられた方とか、あと混血なので白人と同じ生活はできないというような人たちが、奴隷解放後に本当に土地が自分になかったんですよね。なので、その人たちが土地を持つことというのが権利として保障されたのが、1988年憲法なので、ただそれよりちょっと前にもう組織を作ることが可能だったので、団体自体は84年にできているんですが、非常に歴史の長いところです。

 26州のうち24州に部局があって、なのでコロナのパンデミックが始まる前から彼らは、自分たちの空いているところを何て言うんでしょう、有機農法を使って農地を作るということは憲法に保障されている権利だから、誰も文句は言えないというところで、法律に則った活動をして、そこを自分たちが、土地のない人たちが、まずビニールテントで占拠して、そこに農地を作っていくという、そこをコミュニティにして何にもなかったところに一応、名前を付けて、まちづくりをしていくっていう活動なんですね。で、コロナになったときには、自分たちのところに野菜が手元にあるので、ああ、もうこれはこれ使おう。もともと自分たちの販路も形成されているので、自分たちの作った野菜を運んでいって売るところと、それを使って非常に安い値段でご飯を食べられるところというのはもともとあったので、そこを一気に使って、すごく活動をしていたのが印象に残っています。なので下の写真はその食料配給ですよね、配布か、それを1家族ずつパッキングしたところの、人力もあるので、あっという間にできるというような、すごくダイナミックなことをしていました。

 これがだから言ってみれば、大都市ではなくって、地方都市だったりとか、農村に近いところでの活動ですね、で、右側の、ここは本当にサンパウロのたぶん外務省はここには足を立ち入らないでくださいっていうような、ごめんなさい、写真は私が撮ったんじゃないんですけど、治安が危ないからと言われているところなんですけど、やっぱり食の問題というのが、おそらくパンデミックの前までは、そこまで「買ってくるもの」というイメージで暮らしてたと思うんですね。でもパンデミックになったときに、一番、やっぱりさっき先生におっしゃっていただいた死亡率とか感染率の高いところ、やっぱり衛生状況が良くないと思われているファヴェーラであって、スラムであって、だけどやはり彼らは日々の仕事に行かないと生活ができないので、さあどうするってなったときに、NGOのつながりは本当にブラジルは強いんですね。なので、もうどこでもMST、土地なし農民運動の食料配布のようなことを自分たちの地域でまず、自分たちがやらなきゃ政府なんて待ってられないぐらいの形で、行動をすぐ起こすんですよ。

 このパライゾーポリスというところなんですけれども、サンパウロのファヴェーラ・ネットワークのところは。そこも食料配給をするんだけれども、食料をもともと作れないというのがおかしいよねって言うんで、ここアメリカ系のブラジルのNGOが協力して大きな場所を作って、ただ自分の家でも野菜ができる水耕栽培みたいなものを手作りでそんなにお金をかけなくてできるような作り方を皆でシェアをして、そこで学んだことが自分の家でもできるというような技術習得の活動も、限定的ではなくって結構様々なところでやっていたのが、すごいし、しかも、それは女性を中心として始めるんですね。それもすごくエンパワーメントすることとつながるということ。で、菜園づくりの技術を学ぶとともに、まあコロナなのでもちろん、感染の心配もあるんですけれども、それに十分、気をつけながら都市部にいても農業に触れることとか、食料主権を形にしているっていうような試みで、すごく活動できていることがすごいなと思っていました。

*池上さん

 そこで先ほどの斎藤さんの自給の話と関連するんですが、日本の場合はそこの配給が、農協がたまたまやるから、行ってもらってくるとか、生協さんがたまたまやるからもらってくるとかっていう形が多くて、自分たちで作っていくというか、地域で作って、それを自分たちで配布し直すというような、そういう仕組みがないっていうか、たぶん農村でもそこはあんまり変わらないと思うんですよね。なんかそういうのを上手く作り直すというようなことができると、多少、輸入が減ったり価格が上がったりしても、もうちょっと対応力、レジリエンスというか地力のある対応ができそうな気がするんですが、どうですかね。そのへん、何かいいアイデアはありません?

*斎藤さん

 そうですね、結構、農地が余って空き家もすごくいっぱいあるけど、じゃあ貸すのかというと中々うまくはいかない・・・、そこで地元の農業委員会だとか中間管理機構がとか・・・。都市と農村もそうですし、都市と都市、農村と農村、対話力というか、あるいはコーディネーター、ちゃんと地域の住民・農民の気持ちも理解できるし、若い人であったり、都市部の人の気持ちも分かる。やっぱり対話力、この本『ほんとうのグローバリゼーションってなに?』を通して、クリティカル・シンキング(Critical Thinking)・・・、ソクラテスではないですけど、「ただ生きるのではなく善く生きる」農を通して善く生きる・・・、ウェルビーイング「身体的・精神的・社会的に良好な状態」の時代へ。やっぱり高度経済成長時代を含めて、食べるのに、生きるのに、お金を稼ぐのに必死だったけど、何を基準に幸せの価値とする時代へ移行するのか。「見据える力」が農村にも必要だし、都市部の人たちとも対話力が必要ですね。学校の教育においても、農業が儲からない仕事であったり斜陽産業って伝えるのではなくて、レジリエンス「生き延びる力」や農村の持つバッファー機能であったり、多面的な価値を見出す「生きた学び」が必要です。生活農業、農的な暮らし、生き方農業、「生きがいとしての農業」を学校の現場で教えていかないと・・・。子どもたちはそういう目線で絶対農業を見ていないので、やっぱり教育の現場でも、「本当の対話力を上げる」ということが学習の目標にならなくてはいけない。だから仕組みというようりも、1人ひとりの意識が変わって、ちゃんと会話ができるということが、それは農業に限らずに、日本にもっとも必要なことだなと僕は個人的には思っています。

*池上さん

 まあ仕組みを作るためにはね、そういう気持ちが出てこないと、仕組みもできないので、両方要るような気はするんですけどね。

*斎藤さん

 FFPJの前に活動していた組織、小規模家族農業ネットワーク・ジャパン(SFFNJ)農民代表として、スペインのバスク地方ビルバオを会場に開催された、VI GLOBAL CONFERENCE ON FAMILY FARMING(第6回世界家族農業会議)テーマ「家族農業生産者の生活向上のための10年」に行ったときも、世界の家族農業や農村の問題点として、ジャマイカのビア・カンペシーナ(La Via Campesina)の方は、「私たちが直面しているのは、農の現場や農村に若者が少ないということだけではなく、世代継承。トレーニングはあるが、戦略というものがなく、皆外に出て行ってしまう。農村の人々が離れていかないように、一緒に働く、協働していくことが大切」とうったえていました。プログラムはある、いい仕組み先にあっても、それを実践する若者であったり、ボトムアップ型で1人ひとりがそれをどうやっていくんだという意識が変わらないと・・・、私は考えていることですね。子どもたちとの会話や教育の中でも「お父さん何でそんなに人に認められもしないし、お金にもならない小規模農業をやっているの?」と聞かれる中で、ディスカッションをしますけども、それはすごく大きな問いだなって思います。その辺りは、ぜひ学校での対話能力であったり、上智大学で・・・、また農村の現場でも、全世界的にもスキルアップし自分事化していく必要があるなと思っています。

*池上さん

 今まで議論していて、すでに出ている論点の意義ね、自分事化するっていうところと、非常に関わっていると思うんですよ。そこでね、農の教育力とか難しいことを言うよりも、昨日、私、上智大学のさっきお話に出た、食と農と身体の授業にちょっと出させていただいたんですが、そのときに学生さんが20分くらい発表したんですけれども、そのときに出てきた発表が素晴らしかったんですよ。隠岐の海士町に、島根県かな、隠岐の島の4島のうちの1つ、ちっちゃな島ですけど、そこに1年間滞在して、「島食の寺子屋」っていう和食職人さんの学校があって、そこに1年間滞在していたらしいんですけどね。そこのところの和食料理人学校の狙いが、島なので材料がとにかくその日に手に入ったもの。旬というのは当たりまえですよね、魚は獲れたもの、だから旬なので、島の中で、場合によっては野菜のない日もある。そういう中で、手に入ったもので献立を作って料理を作る。それを提供するというような考え方、それが和食の入り口になっているような気がして、和食をちょっと見直さなきゃいけないかなと、ちょっと思いました。それは別として、そういうようなものを取り入れた上智大学の身体地理学のような可能性をね、1年間かけてする取組など、何かありそうですかね。すごく面白いと思うんですけど。

*田村さん

 先ほどのスライドをまた、見せていただいてもいいですか。資料としてあると分かりやすいかもしれないので。はい、OKです。もともと開講元が「身体知領域」というのがおそらくポイントで、保健体育なんです、学生からすると。もともと保健体育という形で開講されて、食に関する授業はあったんですね、栄養とか。自分の身体を作るものは、何を食べるといいとか、上手くスポーツができるとか、そういうのはあったんですけど、農はなかったという話で、だけど、食があるというのは、農があるから食があるわけで、その辺がつながってないというのがある一方、ちょっと重複するんですけど、私の所属している大学では非常にグローバル・イシューの授業がものすごく多いんですね。だから世界の農業のことはすごく知識がある。だけど、それ輸入して入っているということを知っているんだけど、それを食べているってことにつながってないというのが、でもそれを切り口とした授業があったら、200人、ごめんなさい150人でした。150人で抽選だったんですけど、すごい人気があって、抽選で落ちたという子もいたらしいんですけど、食べることからまず授業を始めるので、関心の持ち方がぜんぜん違うんです。

 初めはだから、何を食べると体重が減るとか、何を食べると健康に生きられるとか、やっぱりタンパク質ですよね、みたいなところから入って行くんですが、徐々に徐々に、じゃあこの食べ物はどこで育っているか。日本の農業の問題のような知識を知っているんですね。だけどぜんぜん自分事になっていないなかで、1つずつキーワードとして入れていって、食と関連させると、ジワジワと自分事になってくるというのが、毎回毎回、先生方はもちろん違うんですが、学生さんにはちょっとコメントを書くようにしてもらっていて、それを私もコーディネーターの先生と、島先生と確認をしながら、どういうところが効いたのかとか、特に疑問を持ったのかとか、どこがイマイチつながらなかったとか見ていったんですけど、やっぱりちょっと人数が多いので、個人差はあるんですが、やっぱり「今まで考えたことがなかった」というコメントが非常に多かったですよね。だけど、よく考えたら毎日食べてるし、食べ物はやっぱり買うものだったというか、お金を払って。あと自宅の子が上智の場合は多いので、親が作ってくれるものだと思っていたっていうような。だけど学んでいること、今日、授業で聞いたことと、こんなに関連しているのかというような知識を意識化させながら、で最後の最後に心・身体・いのちということにつなげていったんですよね。

 それはやっぱり食と農と身体っていうのが、全部、と・と、ってなっているけど、つながりを持っていて、それがいのち、要は身体がボディではなくてSomaというような表現を、吉田先生という一番最後のヴィーガン、ベジタリアンのお話をしてくださった先生がソマティックの専門の先生なので、そこにつなげて、自分のいのちが維持されているのは、他者のいのち、他の植物も動物もいのちはつながっていてあるんだよということを最後に持ってきて、上智なので実はカトリックの教えと食、それから修行の経験がある先生にも話をしていただくと、東洋の側面から西洋の側面から、宗教というよりは考え方、思想ですよね、それと一緒に全部持ってきて、すごい贅沢な講義を作ることができたんですけど、そのなかで農学部がまずないっていうところで、自分はそれぞれ法学とか、理工学部の中に、情報生命理工という一応、学部はあるんですけど、農業ではないところで、自分が常に学んでいることと、自分自身の身体を作っている食と農というのがつながる、半年間の授業だったんですけど、つながるプロセスにある程度、できたんではないかなと思いまして、先生には昨日、授業に来ていただいて、プレゼンテーションをしてくださった学生さんはフィールドワークに1年間、出ていた方なので、その学生さんの語りをやはり聞いて、フロアにいる学生さんも、自分も行ってみたくなったとか、自分がやっぱり色々話を聞いて、斎藤さんの話とか、種を蒔いた子もいます。

*斎藤さん

 上智大学の授業「食と農と身体」の授業の中で、私の講義『地球市民皆農〜農から「善く生きる」〜』では、受講された生徒150人に、私の農園で自家採取しているタネ「じねんの種」を自分で蒔くようにと(=自分事化する)配りました。生徒からのリアクションペーパーでは「早速、庭にタネを蒔きました」の声がたくさんありました。生徒たちは小中学校では、アサガオとかトマトとかの栽培をプランターなどでやった経験がありますが、中学・高校からはほとんど栽培(「カルティベイティブ(Cultivative)」)などに携わることはない。私が種子(タネ)を配り、「自らタネを蒔く」ことを薦めるのは、継続性・・・、今だとスマホを授業中や授業が終わったらすぐ見て・・・。いろいろなことを知って、そのことに対する「情熱」(問題認識など)が生まれます。情熱というのは、それぞれの人の熱量にも寄ると思いますが、「三日坊主」という言葉に表されるように、3日で冷めてしまう。現代では、色々な情報を得ても、スマホなどすぐに違う情報にさらされてしまうので、下手をすれば「3時間後」もっと言えば「3分後」には情熱は冷めてしまう・・・。タネをお配りする一つの目的は、タネや植物による、可視化と継続性にあります。タネを蒔いたことで、少なくとも「3カ月」(植物の種類によっては半年から1年、越冬するものは来年も再来年も)、情熱という意識が持続するハズ。実がついた、種ができた・・・継続性、そういう体験が農業というか、カルティベイティブな力にはあると思っているんですよね。「商品」「消費」「デジタル」による過度な自己能力の 外部化は、同時に自分自身をも喪失していく。自分の興味だけじゃなく、自分という主体だけでもなく、動的な生き物の中に、自分以外のものを見るということは、子育てなどの命と向き合うこと同様に、自分と命が、地域や地球がつながってくる。地球と人間の接点である「種子(タネ)」は、生物としての人間の存在を、最も生き生きと自分の心身に「内なる自然」として実感させるハブ(HUB)「触媒」だと思うので、そういう意味でタネを蒔いて欲しいなと思います。

*池上さん

 第1巻の課題のグローバリゼーションというところにちょっと引きつけて、かなり強引ですけど引きつけるとね、昨日の学生さんのご報告にも関連するんですが、グローバリゼーションは結局、食を見えなくしたんですよね、どこで誰が作っているか、食べるのは自分で食べるからいいんだけと、どこで作っているか、誰が作っているか、どんなふうに作っているか、ということを見えなくする。これがグローバリゼーションだと思うんですよ。そこを島に行って、外から食材が入ってこない世界なので、その日に採れたものしか食べる物がないところで、自分で作ってみなきゃいけないということを体験することで、そこのブラックボックスに気がついたというのは、素晴らしかったと思います。そこでちょっと乱暴な話になりますけど、卵を産むニワトリを1羽持って、1週間、無人島へ行って、サバイバルキャンプをするというような、1人ではなかなかしんどいから、グループで行けるように、そんな教育を思い切ってやるような小学校とか中学校ないかなと、空想しています。国民皆農の第一歩として、それは面白いんじゃないかというふうに思うんですけど。

何か質問が入っていますか。はい、質問が入っていないようなので、もう少しこちらで続けさせていただきますけど、せっかく田口さんに、その前に阿部さん、ちょっと話がズレてしまうんですけど、利用者である、おもな利用者だったら、たぶん学校の先生とか、そのあたりから何か、こんなような感想とかですね、それから、こんなところがあるともっといいのになとか、いうようなご要望とかありませんでしたかね。

*阿部さん

 はい、ありがとうございます。ちょっと今の話の流れからすると、学校教育寄りに行きすぎてしまうかもしれませんがお許しください。

農文協では営業職員を「普及職員」と呼んでいるのですが、うちの普及職員がこのシリーズをすすめに回っているところは、中学・高校が中心なんですね。しかも基本的には図書館の司書あるいは司書教諭と会うことが多いので、授業を担当している教員の方々の反応は、なかなかつかみにくいところがあります。ただ、まずは学校図書館では広く受け入れられている。これは図書館にとって必要な本だろうという評価をいただいておりまして、それは普及職員にとってすごい自信につながっています。「この『テーマで探究』は普通高校でもいけるぞ」っていう感じですね。普及職員というのは、断られると元気がなくなるんですけど、受け入れられると元気100倍になりますので、このシリーズからすごく力を得ています。

 そんな中で数少ない、しっかり話が聞けた教員ということで、愛媛のある私立の進学校の地理の先生が話していたことをご紹介します。2022年度から必修科目「地理総合」が始まっているけれども、まず地理を教えている先生は社会科の免許をもっていても地理の専門家って少ないということ。そういう先生は教科書に書いてあることを「知識」として教えて、「ここ次の試験で出るぞ」というみたいな教え方だったらできるけれども、そうじゃなくて、本当にグローバルとローカルをつなぐような授業というような高度な授業は、実態的にはまだまだできていないんじゃないか、という話ですね。そういう中で、生徒は「問いを立てる」――さっき池上先生がおっしゃっていた「クリティカル・シンキング」に関わるんですけども、そういうのがすごく苦手という面がある。実は生徒だけではなくて教師も苦手なんですね。そもそも教師が問いを立てて考えを深めるような授業をやったことがない。しかも「答えが出ないような問い」を立てるというやり方というのは難しくて、このシリーズは教師自身が参考になるんじゃないかと、その先生は言うんです。そういう悩みを持っている先生なら、この本は教材研究に活用できるし、さらには生徒に調べ学習の教材として使わせることもできる。そんなわけで、まだ多くはありませんが、このシリーズを1セットじゃなくて、複数セットを買って、調べ学習に使うような動きも出てきています。

さらに、二宮書店という地理教科書専門の出版社から、このシリーズを活用した授業づくりを特集する雑誌企画の申し出があり、コラボ企画が実現しました。

 先ほどの田村先生と斎藤さんの議論にちょっと関わることで言うと、そういう普及活動の中で、高知県のある学校で、実はそういう問いを立てるにしても、いまの生徒たちは元になる体験が少なすぎるんじゃないか、という声を聞いてきたのです。今日のキーワードで言うと、「自分事」として問いを立てるということ。何か頭の中で考えて、地球環境問題とかニュースで扱っているような問題について問いを立てることはできても、本当に切実な問題として、「自分事」として食や農について問いを立てるにができない、それには、ある一定程度の体験がベースにないとできないんじゃないのという話がありました。実際にこの高校では「総合的な探究の時間」をつかって農業体験をおこなっているというのです。さっきの斎藤さんの、「高校になると体験が切れる」という話ともつながりますが、小学校までは「生活科」や「総合」の時間をつくっていろんな体験をさせているのですが、中高での食農体験というものを、もう一度見直さないと、本当に深く学ぶこともできないんじゃないか、という気がしています。

ちょっと話がそれますけど、最近、農文協入職3年目の若い女性職員が自分の出身の農業系大学に行って、自分がやっている仕事について授業で話す機会があって、その後の感想文を読んで愕然としたそうです。農業系の大学に通っている学生ですら、その授業の前には農業や農家についてマスコミが伝えるようなネガティブなイメージしかもっていなかった学生が結構多い。その女性職員は日々、普及活動を通して出会ったすばらしい農家の話をしたので、「自分が行って話したことで少しはそこが変わったかな」と話していました。農業について頭だけで考えると学生たちのようになってしまうわけで、今日のお話にあった「身体知」とか「自分事」として考えるには、ベースとなる体験が重要と思いました。

そう考えると、「テーマと探究」とセットになるような体験メニューを考えて、その実践の蓄積をネット上で公開するとか、そういうこともやれたらいいなと、まだこれは「妄想段階」ですけれども、思っている次第です。

*池上さん

 はい、ありがとうございました。出版社続きで申しわけないんですけど、せっかくお越しいただいたので、田口さん、先日の打ち合わせのときには、もっと色々面白い議論ができたんですけど、ちょっと時間が足りなくなってしまいましたので、短めにお願いします。

*田口さん

 私は3巻担当で、編集者の田口と申します。3巻は漁業・林業を扱っているからちょっと異質の巻なんですね。ただまあ、異質と言ってしまうところに今の専門性に囚われた教育がある思うんですよ。例えば農業は水がないとできない、これは誰でも分かる話ですが、それでは、その水はどこから来るのか。全てがというつもりはないですけれど、山がちゃんとあって、それが川から流れて行って、その水はその先にある海まで行って、全部つながっている。そういう意味では第3巻は大事な巻だと思って、次の会で取り上げらえることはとても嬉しいなと思っています。

 そこから無理やり今日の議論つなげてみますと、いまの若い人たちは食べ物に対するリアルさが欠けているってよく言われます。そのことをふまえて話してみますが、例えば学校って少なからず木がありますよ。木がない学校もなくはないんだけれども、少なからず木があります。葉っぱ、落ち葉はどうしてるんですかというと、たいてい掃除の方が集めて、焼却の方へ持ってって、もったいないよねという話もできると思うんですけど、その葉っぱを積んで、積み方にもちょっと工夫がいるんだと思うんですけど、積んで1年経てば、腐葉土になります。腐葉土を使ってなにか作るということもできるはずなんです。

 あるいは調理をしていれば必ず残飯が出るはず。食べ残しもあります。それを使って堆肥ができるかもしれない。学校という小さな場所でも、そういうことが体験できるかもしれない。都会の中でもやれることはあるんです。世田谷の方には農地がまだありますし、東京だから農がないというのは、それは間違った認識であるわけです。それと、木と水と緑があれば暑さはぜんぜん違います。1週間前はに、東大の弥生キャンパスにいたのですが、あそこは土があって緑が豊富で周りが高いビルで囲まれてないという夢のような場所なんですけれども、ほんとうに涼しい。土と緑と水の関係にはたくさんの可能性があります。そこにこの第3巻は焦点を当てていますし、関係性からものごとをとらえるというのは、シリーズ全体の特徴だと思っております。

*池上さん

 はい、ありがとうございます。質問が2つ、あります? ありがとうございます。ちょっと、読んでいただけます?

*岡崎さん 

 1つ目は、大江さんから。今後、日本の専業農家が減っていき、地域の担い手不足が起こることについて、どう考えますかというような内容です。それと、浦辺さんからは、人間の復権には、農業が必要とお考えですか。そのときの農の本質はなんでしょうか。LED、循環水、完全温度管理、微量元素で野菜を作るのはノーですか。放射線操作で品種改良した作物を作るのはノーですか。地球が病んでいるのではなく、人間そのものが病だと思います。人間の生存にとって、都合が悪くなっている現象を変えて、人間が生存できるために必要なのはなんでしょうか。

*池上さん

 あとで私の考えでお答えできるところはお答えするとして、何かひと言ずつでもあります?

*斎藤さん

 大江くん、大江さん。大江さんは京都亀岡の若き篤農家なんですけど。

*大江さん

 出ていいですか。久しぶりです。

*斎藤さん

 ウチ(じねん道)の農場に20年前位に新規就農する前に来たんですけど、素晴らしい、亀岡の事例をむしろ伝えてください。

*池上さん

 私も亀岡は京大の田植え体験をしているところに顔を出していますので、まだ1回だけですけど。

*大江さん

 亀岡市で14年間、有機の野菜農家をしてます。斎藤さんのところに研修生第1号みたいな感じで勉強をさせてもらって、その後、亀岡市で就農してと言う感じで、やっています。その節はお世話になりました。

*斎藤さん

 ぜひ、亀岡でやっている取り組みとして。ご自分で質問されたことに関して、自分がどう思うか、何かちょっとお答えください(笑)

*大江さん

 まず、亀岡市の取り組みとしては、亀岡市はオーガニック・ビレッジ宣言をしていて、私が理事をしてます一般社団法人亀岡オーガニック・アクションという団体で、亀岡市の公園予定地の中の田んぼで、オーガニックの田んぼの勉強会という形で、毎年、100人程度の学生さんだったり、一般の方に来てもらって、皆で田んぼを作って、田んぼで米を作って、亀岡市の給食にそれを使ってもらうという形で活動しています。

 簡単に言うとそういう感じで、僕が質問したのは、今日は興味深い話が聞けて、すごいありがたくて、僕も色々参考にさせてもらおうと思ったんですが、僕もその田んぼ体験を通して、小学生だったり、高校生、大学生にやっぱり来てもらって色々、一緒に活動して、一緒に体験をやっているんですが、やっぱりやっている実感からすると、そんなに関心は高くなくて、どっちかと言うとプログラムであるから行こうかなぐらいの人が、そういう感じが何となく多い感じがしていて、それはそれで後々、何かのきっかけになることはあるから、ぜんぜん役に立つとは思うんですが。

 一方で、やっぱり私のいる地域、片田舎なんですが、70代以上の方がもうメインで、農業はもちろん地域のことですね。地域の溝掃除だったり、何か獣害があったから皆で直そうとか、そういう地域を守るための取り組みというのを、みんな70代以上の人が中心にやっていて、たぶんその方が10年経てば、もう動けなくなっていて、その息子世代、僕らくらいの世代、40代くらいになると、もう地域のことは何も分からないし、農業もやるつもりもないし、ぜんぜん分からないよという感じで、結構、僕は危機感を感じていて、ゆっくり今後、今、若い人が育っていったら、地域の担い手になっていくには、たぶん時間が足りないかなという印象を受けているので、そのあたりはどうかなというのを聞きたいと思い、質問しました。

*斎藤さん

 はい、この本『ほんとうのグローバリゼーションってなに?』でも「立ち上がるZ世代」のタイトルで執筆され、FFPJのパネルディスカッションでも、以前の登壇なさった古賀さん、の古賀瑞さん(当時:Climate Youth Japan代表、東京農工大学農学部3年)、(大江くんと同じ東京農工大ですよね?)彼ともディスカッションしたときに、「若い人たちが農業を仕事としてする動機として環境意識とか、そういうものから農って入ってくる人は少ない。むしろ生業として生活をしていくため農業をする人の方がほとんど」と言っていました。上智大学の学生はどうか分からないですが、授業料や奨学金返済など夜中までアルバイトしている生活状況の中で・・・。環境意識での農業よりも、むしろ生業=お金を稼いで食べていくための職業として成り立つんですか?農業って食べていけるんですか、これからどうしてったらいいかという中で、EUとかの支援は家族農業に対して豊富だと言うと、それだったらできるんじゃないかと・・・。僕らの就農した20年前より、すごく経済環境とか色々な意味で、追い込まれているという意識が強い中で、若者世代に、どうやったら本当に成り立っていくとかも含めて・・・、大江くんはすごくいい顔つきになっていますけど(笑)よく言われますが、先住民族、ネイティブ・アメリカンの教え、 七世代先の子孫との対話「セブンス・ジェネレーション(7th generation)」何か話し合って決める時、 7世代先の子孫が幸せになるかどうかが判断基準に持つことは、理想論じゃなくて、今すぐにでも本当にはじめないともう遅いんですが・・・。「7世代先の子どもたちのために」というのを本当に実現できる体系を、農業だけではないと思うんですけども、しっかり実現するという対話が必要ですね。私自身もできてない部分も多々あるんですけど、日本でもどのようにしたらできるのか、農の観点から可能性を突き詰めていきたいなと考えています。

*池上さん

 次回の山の話は、何世代か先ですから当然ね、サイクルが違うから。もう一つ、浦辺さんの、人が病んでいる、どこに病巣があって起きるか、こういう人工的なのは生命原理に反しているので、農ではない。

 もうちょっと詳しい話は後で、文章かなんかで直接、お話をさせてもらいましょうか。ちょっと時間を超えていますけど、浦辺さん、ひと言だけもし、お話されるのであれば、顔を出していただかなくてもいいですけど、いかがでしょうか。

*浦辺さん

 じゃあ、ひと言だけ。僕自身は池上先生はご存じですけど、川口さんの自然農を習って、自給自足を目指して、実践をしているんですけど、いろいろな意見があって、何で農なんかしなきゃいけないのみたいな人には、何と言ったら伝わるのかなっていう、どちらかというと素朴な質問なんですけど、前提がなかなか難しくて、すみません、変な質問になっちゃいました。

*池上さん

 また、昨日の上智大学の授業に戻るんですけども、知らなくても生きていけちゃうというところがあるんですよね、確かに。知らなくても生きていけるんじゃないって言われたら、どういうように答えよう。私には関係ないよと言われたら、もう胃袋なんか要らんと言っている人たちがいるくらいなので、そういう世の中で、農というのは身体に結びついて、昔、誰かが言いましたよね、「あなたが食べるものを言いなさい、そうすればあなたがどんな人だか、私は指摘してあげましょう」と。誰が言ったか忘れちゃいましたけれど、そういうことが通用しない世界になってきているというところにちょっと怖さを感じています。そこにまで働きかけなければいけないのか、もう住む世界が別として、それがどうしょうもないというか、意思疎通ができないというふうに思っちゃうのかね。ちょっとそのへんも非常に悩ましいところです。

 ちょっとまあ、答えになりませんけれど、ちょっと浦辺さんにはまた別途、お答えしたいと思いますし、大江さんには亀岡に会いに行きます、ということで、それで今日は、時間をだいぶ超過してしまいましたが、やっぱり現場で話をしてると、ついつい話が展開して行きますので、参加していただいた方のご意見をあんまり反映する時間が取れませんでしたが、お許しいただきたいと思います。現場で実際に顔を合わせてやるというのも、非常に触発されて面白い議論ができるかなというふうに思いましたので、また何か機会があれば、取り入れていきたいと思います。

 で、今、そこにチャットが出ましたが、次回ですね、次回は8月23日金曜日、19時半から通常、FFPJのやっているタイプの講演になります。で、編著者が語る第3弾ということで、次回は林業についての回になります。ご担当は編者の佐藤先生、九州大学の先生ですね、佐藤宜子先生。それから自伐型林業の推進をしておられる上垣さん、FFPJの副代表でございます。それからもう1人、東京大学から、斎藤先生にもお加わりいただくということになっております。また違った議論ができるかと思いますので、ぜひご参加のほど、よろしくお願いしたいと思います。

 それで、阿部さんからご紹介いただいてもいいんですが、第1巻も2刷りが決まったそうでございますので、それから何かちょっとあります?

*阿部さん

 はい、第1巻は2023年4月に初刷3千部印刷し、完売しました。2月に出た第2巻が先に増刷が決まりまして、第1巻もまだかまだかと思っていましたが、今週正式に増刷が決定いたしました。第3巻の増刷も時間の問題だと思います。これも本当に編著者や執筆者の皆さん、それからご利用いただいている方々のお力の賜物だと感謝しております。ますますご活用いただけたらと思います。

*池上さん

 ありがとうございます。それでは今、挙がったのは拍手かな。はい、ご質問いただきました大江さんと浦辺さん、どうもありがとうございました。それではこれで、今日の対談、講演第31回かな、31回は終了したいと思います。お暑い中をどうもありがとうございました。